テーマ:「仏教の課題」

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***>>引用開始>**
実栄にそそのかされる 2008年11月26日11:10

パスカルの『パンセ』について書こうかと思って、予告までしたのに、
ちょっと読み返してみたら、細かいところは、もうどうでもよくなっていた。

『パンセ』を離れて、もっと本質的な(と思える)ことだけ、ちょっと書いてみたい。

以前、「求められない」という日記を書いたことがあるけど、
まずは、あそこで引き合いに出した加島祥造の『求めない』について。

この本は「足るを知ることは富なり」という老子の思想がベースになっている。
例えば、この本の105ページには、こう書かれている。
 
 求めないーー
 すると
 もともと、求める気なんかなかったと知る
 そそのかされたから
 根のない恐れに駆られたから
 虚栄にそそのかされたから求めたんだ、
 と知るよ

つまり、この本では、「虚栄」にそそのかされて、必要以上に「求める」ことが否定されている。
それをやめさえすれば、人生はもっと豊かなものになる、と言われている。
よいことを言っていると思う。
それが一面の真理であることは疑えないと思う。

しかし、私には、「求める」ということには、もっと重大な、それとは別の問題があるように思える。
加島祥造の言うところに反して、最も大きな問題は、
むしろ、「虚栄」を求めることに、ではなく、
逆に、「虚栄」を超えるものを(だからいわば「実栄」を)を求めることに、あるように思える。
だから、「虚栄にそそのかされたから」のところはむしろ「虚栄を超えるものにそそのかされたから」と言うべきではないか。人間は、むしろ、通常の適度な「虚栄」の範囲で生きていくべきなのに、と。

だが、こちら側の「そそのかし」を振り切って、むしろ「虚栄」の範囲に喜びを見出し続けようとするのは、難しい。
理由はおそらく、こちらは「根のない恐れ」だとは言い切れないところにあるだろう
(もちろん「虚栄」の側だって同じだと私はむしろ信じたいのだが…)。

ニーチェは、こちら側の、「ない」「根」を「ある」と信じることの方を、「ニヒリズム」と呼んで、克服すべき課題とした、と私は解している。
だが、この「ニヒリズム」を超えるのは、本当はひじょうに難しいと私は感じている。
この「根」はどう断てるのか?
それは、存在と意味という哲学の最も根本的な問題に、
今の私流に言えば「存在の意味への組み込み」という問題に、関係している、
と私はずっと感じてきた。
(「血で書かれたものとインクで書かれたもの」という日記についての、11月24日の自己コメントで、<マルクス主義>との関連で、自分の哲学の歴史的位置づけ(大袈裟?)について、ちょっと書いたが、あれは、私の内部で位置づけると、このことに関連している。)

加島の依拠する限りでの道教もそうだが、
私の少し知る、パスカルキェルケゴールハイデガーといった、キリスト教思想家たちも、
なぜか、みな、この逆の課題を考えているように見える。
彼らはみな、加島の「虚栄」にあたるもの(また「気晴らし」とか「空談」とか…)をなんらか否定し、
非本来的なそれらを超えるものを求めるよう「そそのかして」いるように私には見える。
(加島の本はそんな風にそそのかしてはいない点で節度を心得たよい本だと思うが)。

まさにそれをこそ拒否しているのは、
(私の解する限りの)ニーチェと、そして(また私の解する限りでの)仏教である。
断っておくが、私は(教義の中に哲学めかした嘘八百を詰め込んだ)仏教なるものが大嫌いだ。
だが、仏教が自らに課した課題は信じがたいほどの先見性を持つように私には感じられる。

しかし、そのことが一般にあまり理解されていないように見えるのは、なぜなのだろう?
ニーチェだって、パスカルキェルケゴールハイデガーの路線で捉えられることが多いように思う。)

書いていて、違うかな、と思ったので、最後に一言:
「彼ら」はみな「そそのかして」いるように「見える」と書いたけど、そうではないかも。
根のない恐れに現に駆られて、その恐れを実践しているだけかもしれない。
だから、彼らの方がリアルに感じられるのかな…

なっち. 2008年11月27日 10:27
上の日記、
実はまったくもって簡単なことを言っているのですが、
書き方が悪いせいか、意味が分からないという人が複数いたので、
ちょっと、ヒント:

「虚栄を超えるもの」といって、
現在の若い人に誰でもすぐに理解されるであろうものは、
端的に、<恋愛> です。
もしかしたら、もはや、それしかないのかも。

ナカ 2008年11月28日 11:02

なるほど、「<恋愛>などは虚構であって、そんな嘘っぱちの価値に頼ってはいけない」というように、<恋愛>の虚構性を暴きたてようとする人は多いようですし、それに納得してしまう(してしまいたい?)若者も多いかもしれませんが、しかし、そうした若者たちでさえ、こころのどこかで「実はそのように見える<恋愛>は実栄であって、なぜか自分はそれを他人と同じように実栄と感じることができなく、それがかなり寂しい」と思っているのかもしれませんよね。

恋愛やその他の価値についても。結構私はそんな感じで寂しさを感じたりもしていました(今はそうでもないですが)。自分には見えない実栄を考えることによって生じる寂しさとでもいいますか。振り返ってみると、実にくだらなかった、と思うこともありますが・・・

なっち. 2008年11月29日 09:49
「自分には見えない実栄を考えることによって生じる寂しさ」

とは、なかなかよい表現ですね!

私は『子どものための哲学対話』という本の第2章の5で、
「世界の中心」という話をしていますが、
あの比喩で言うと、
「実栄」は「中心」です。

あの話にからめて言うなら、
私が言いたかったことは、

世界には実は中心なんてないのに、
無い中心を求めること、

を否定する、
というという意味での「求めない」

の方が、
本当は重要な(しかしときに困難な)課題
なのではないか?

ということでした。

**<引用終り<<***