切り取り:「視座・『本当のこと』」

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■結論から言えば、問題の本質は社会的反応のステレオタイプにある。日本では記者クラブ制度と放送寡占で、調査報道というより報告報道--政治家や官僚(警察官僚を含め)がこう言ってました--の比率が多く、事件なら事件について「本当の事」は分かりにくい。
■「本当の事」とはむろん言葉の綾に過ぎない。マスコミ論の今日的水準では、かつてのW・リップマンやD・ブーアスティンのように現実を疑似現実が覆い隠すという単純な図式はとれない。むしろ視座--文字通りカメラの立ち位置--次第で複数のリアリティが並立するのである。
社会学者P・バーガーはこれを多元的現実と呼び、J・ボードリヤールはオリジナル/コピーの二元図式と対比してシミュラクルと呼ぶ。事件報道をする寡占的放送局の全てが報告報道--警察リークの反復など--に覆われれば、複数視座の提示可能性は塞がれる。
■従って、ここでいう「本当の事」とは、あり得る視座の大半をシミュレイトした結果得られる「多元的現実の束」を意味しよう。「こちらからはこう見え、そちらからはそう見え、あちらからはああ見える」ということ自体が、謂わばメタ真実を構成するのだ。
■こうしたメタ真実を受容するには前提が必要だ。社会を多様な者たちが構成するのが通常態だという認識である。近代が成熟すれば社会は多様になる。だが多様性フォビア(恐怖症)が覆う日本ではメタ真実が嫌われ、不安を覆い隠す単純な真実が需要される。
■私にとってニュース解説がルーティーンだと感じられるのは、そうした事情からマスメディアが形づくりがちな社会的反応のステレオタイプのせいだろう。簡単に言えば、いつも同じような社会的反応を相手に「そう簡単な話ではない」と言い続けてきている。