備忘録

なんというかこの方のすごさはゆるぎない自分への「誠実さ」に尽きるなあ、と思うわけです。
「私たちの話し、読み解く日本語は少しづつ形を変えながらも、気の遠くなるほどの昔から続いてきた知性の連鎖の上に成り立っているのだとするならば、たかが一人の人間がある一分野を極めそうだと慢心して見性を得る、8合目まで到達しえたなどと考えるのは思い上がりもいいところだと私は思う。」
http://kiri.jblog.org/archives/001150.html#more
けんしょう ―しやう 0 【見性】
〔仏〕 修行によって表面的な心のあり方を克服し、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。
「―悟道」


使える悪口(笑)
http://cruel.org/other/rumors.html
***>>引用開始>**
一知半解の思いこみと卑近な(偶然の)体験のだらしない一般化、深いオリジナリティのつもりで浅はかなお題目にとらわれた連中がひたすら駄弁を弄する、いつものブルータスが見せるセンスのかけらもない醜悪な代物。
**<引用終り<<***


「宇宙人・未来人・超能力者」という超超突飛な設定が簡単に受入れ可能だったのは、永井均の日記経由で読んだからだ。
「5分前に世界が創られた」可能性を「理解不可能」といいながらも受容している主人公にリアリティを感じなかっただろう、これが2002年以前に書かれていたなら。
つまり、ここで書かれている「可能性」は、講談社のPR誌「本」に2002年から「ひねもす垂れ流す哲学」で永井均が書いていたことなのだ。(「私・今・そして神―開闢の哲学」2004.講談社現代新書)
その連載を読んでいた当時の私は「キョン」のように受容できなくて、ただただ当惑して理解しがたかった。
この本を読んで驚いたのは、
今やそれらの「可能性」のお話は、まったくもってすんなり受容可能であったこと。そしてもう一つ驚き。
私自身が既に「いっそ世界がそうであったらいいのに」というハルヒばりの憂鬱を抱えていることを発見したこと。
そして「終わらない日常」は続く・・・?(笑)