「社会的正義の頓挫」

私の立場から、何が批判できるのか?
「お祭りは楽しいでしょうね」

社会変革を目指すなら、社会(現状・未来)についての学習。
自分の社会観との決別。
(未来に向かって責任を持つならその絶対的な必要性)
どんな社会を善き社会とするのか。

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■「覚醒回避の没入・がもたらす無意味さへの覚醒・がもたらす覚醒回避の没入・…」という高速振動。或いは「無意味を覆い隠すための祭り・がもたらす無意味さを覆い隠すための祭り・…」という高速振動。かかる振動の背後にあるのが「終わりなき再帰性」だ。
再帰性とは何か。『日常・共同性・アイロニー』で詳述した通り、自明性が支えていた選択前提が選択の対象になることだ。端的に伝統に服する伝統主義と、伝統に服する選択をする再帰的伝統主義(保守主義という近代主義)を区別したマートンに由来する概念だ。
■これを踏まえてアレントは言う。「真に伝統があるなら、どんな自己決定にも伝統が反映する。逆に、伝統を選べと強制する営みは非伝統的で、伝統の不在をこそ証す」と。彼女がこう言うとき、しかし彼女は伝統の存在を信じており、ゆえに躊躇なく自己決定する。
■『日常・共同性・アイロニー』(04年)で「終わりなき再帰性」というとき、こうした自明性の地平が多少なりとも自己決定を浸すとは微塵も感じるられない実存状態(が拡がった社会状態)を指している。鈴木のいう高速振動の背後には「終わりなき再帰性」がある。
■「終わりある再帰性」を反省と呼ぶ。マートンの言う再帰的伝統主義は自家撞着を意味しない。なぜならば、かつて選択対象でなかった選択前提をあえて選択する再帰的営みは、選択する主体の一貫的統合機能への信頼という「終わり」に裏打ちされた、反省だからだ。
■私たちの先進社会は今、再帰性に「終わり」が存在しない社会状態へと踏み込みつつある。「終わりなき再帰性」は、あらゆる全体性が部分性へと(或いは内容が形式へと)対応づけられる「終わりなきアイロニー」ないし「オブセッシブなアイロニー」を帰結する。
■このことは「社会的な正しさ(社会的正義)の頓挫」を確実に招く。そのことを明瞭に主題化した映画が、昨年あたりから多数つくられている。問題の構図は、ニルス・ミュラー監督・脚本『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』(04)年において典型的に示される。