「占い」

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【俗情としての占いと心理学の共通性】
■行政官僚国家への拡張要求=行政官僚国家の過剰負担の背景にある、過剰流動性ゆえの不安と不信が、昨今の「心理学ブーム」をも支える。本書は、不安と不信をエサとする「心理学」という俗情に敵対する。この俗情に駆られていては我々の問題意識を貫徹できない。
■八〇年代から大学で(臨床)心理学を志望する人が増えた。昨今はまさに(臨床)心理学ブームだ。実は社会学もブームである。成熟社会に至って、広い意味での「コミュニケーションについての学問」に、若い人たちの注意が集中しつつある。なぜ、そうなったのか。
■「コミュニケーションが不透明になった」との意識が拡がったからだろう。社会が複雑になり、それまで「誰もがそう思っているだろう」と疑わなかった「コミュニケーションの前提」も疑わしくなる。そもそも分かり合うなんてことが可能なのかさえ疑わしくなる。
■そうなると「不透明さに抗して選択肢を提示してほしい」との思いと「選択肢が多すぎるから選ぶ時に背中を押してほしい」との思いが高まる。かかる認知的な方向づけ機能と指令的な動機づけ機能への要求が高まるからこそ、一方で占いや呪いがブームになるのだろう。
■心理学ブームの背景も同じだろう。どうなってるのか「誰か」教えて。どれがいいのか「誰か」教えて。その「誰か」が、占いであり、心理学だということだ。まさに俗情たる所以だ。ところが臨床心理学や精神医学が取り扱う「心」の概念はそんなに自明ではない。
■何万年と続いた原初的共同体では、事物や出来事や枠組を誰もが同様に体験し、同様にに体験するがゆえに同様に行為する。たまに予想外の行為をする者が現れると、狐が憑いた、神が降りた、と了解され、共同的な宗教儀式で、日常世界から切り離された(聖化)。
■この段階では各人に「心」があるという観念はあり得ない。ところが社会が複雑になり、コミュニケーションの相手が予想外の振舞いをする期待外れの頻度が高まると、各人に異なる「心」があり、他人に見通せないという解釈が始まる。かくして「心」が生まれる。
■今日の「底なしの再帰性」(選択の前提も選択されたものだという性質)の下では、コミュニケーションは一層不透明になり、他人ばかりか自分の行為まで理解し難くなる。かくして「自分の心」に関心が集中、「心のせいだ」と帰属処理がなされる。今日的状況だ。

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