備忘録:「純文学・純哲学」読者に委ねられるもの

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純文学 純哲学
2009年05月22日11:05

福田和也の『作家の値打ち』の33頁にこう書かれている:

 エンターテイメントにおいて、作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる。その枠内において、人間性なり恋愛観なり世界観といったものは、いかに見事に、あるいはスリリングに書かれていても、読者の了解をはみだし、揺るがすことがない。
 純文学の作家は、読者の通念に切り込み、それを揺るがせ、不安や危機感を植え付けようと試みる。
 ……
(99頁には高村薫の小説がなぜ純文学ではないかが文章の実例によって説明されている。)

この説明は妥当だと思うが、純文学の説明がネガティヴなものに留まっている。それは、はみだし、切り込み、揺るがせるもののようだ。しかし、どこへ向かって?
たぶん、通常は隠されているものを明るみに出すという方向だろう。すでに明るみ出されいるものの内部に留まる娯楽小説とは、そこが違うのだろう。

しかし、そうだとすると、何が純文学で何が娯楽文学かは、それを読む人によって、そして同じ人でも時期によって、変動するはずだ。
たとえば現在の私にとって、かつて私を含めて多くの人の通念に切り込み、それを揺るがせ不安を与えたであろうドストエフスキーの小説、たとえば『カラマーゾフの兄弟』は、明確にエンターテイメントである。福田和也の規定するエンターテイメントの条件にぴったり当てはまるからだ。そこでは確かに人間性や世界観といったものが実に見事にそしてスリリングに描かれているが、私の了解をはみだしそれを揺るがすところがなく、これまで私に隠されていた何ものも明るみに出されない。
読み返してみないとなんともいえないが、若いころ読んだ「名作」の多くが、いま読めばこの意味でのエンターテイメントか、あるいはちっとも面白くないか、どちらかだろうと思う。

この日記を書こうと思ったのは、(ここ二週間ほど忙しくて結局一ヶ月以上日記を書かなかったということもあるが)、哲学においてもそうであるということを書きたかったからだ。

ヘーゲルの『精神現象学』は、現在の私にとって典型的にエンターテイメント哲学である。ドストエフスキー同様きわめて面白くは読めるが、私の通念に切り込み、私の了解をはみだし、それを揺るがせ、不安や危機感を植え付けるところは、まったくない。

そして、少し意外なことだが、今年度の授業のテキストとして使ってみてすぐ気づいたことに、ハイデガー存在と時間』もまた現在の私にとってははっきりとエンターテイメントでしかない。実際、娯楽小説を読んでいるように、すらすら読めて、ときどき面白く、ときどき上手いこと言うな(とかここはちょっと強引で意外に下手くそだなとか)とは思うが、それ以上に私の知らない何かが明るみに出されていく感じはしない。ドストエフスキーヘーゲルよりつまらないといえる。

すべての古典的哲学書がそうかといえば、全然そうではないところが、私を驚かせるところだ。いま直接読んでいるものでいえば、デカルトの『省察』とカントの『純粋理性批判』。この二つは、なぜか現在の私にとって依然として「純哲学」でありつづけている。

とりわけ不思議なのは『省察』。
第四省察も含めて、あの前後の神をめぐる議論は、字面の上ではまったく馬鹿げているとしか思えない(読んでいて何度も「こいつなんて馬鹿なんだろう」と思う)。にかかわらず、そうした字面の馬鹿馬鹿しさを超えて、私が知っているある問題について私が知らない何かをこいつが知っていることは間違いない、とも感じるのだ。

ああ、なるほど。すると、と福田和也の説明は正しかったのだな。
純文学や純哲学は、通念に切り込み、それを揺るがせ、不安や危機感を植え付けはするが、結局それだけで、それによって隠されていた何が明るみに出されるかは、読者の側に委ねられるほかはないのだな。言い換えれば、それはそれによって明るみに出されるかもしれないような何かを持っている読者にのみ語りかけてくる、ということか。

省察』を娯楽として読める人は多いだろう。私が解説すると聴講者の何人かは笑うから。だが、なぜ私自身は笑えないのかを、現在の私は聴講者に伝えることができない。

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