キーワード:「憲法感情」

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=363
***>>引用開始>**
宮台◇ 憲法学者の奥平康弘と議論した時、僕が「憲法意思がない」と言ったら、彼が「そうは言うけど強固な憲法感情があった」と返した。憲法意思はルソーの言う一般意思の特殊形態で、「歴史的に継承されてきた皆の意思だ・と皆が思うもの」。定義上プラットフォームを意味する。憲法感情はプラットフォームか。違う。なぜか。
 感情には再帰性がない。感情の前提を自覚的に選択する意思的契機がない。感情はいずれ薄れる。前提の自覚的選択という意思的契機だけがプラットフォームを与える。それが理由だ。感情を感情のままで終わらせない工夫を再帰的に実現した暁に、憲法意思になる。というか、その工夫が憲法そのもの。でも日本ではそうならなかった。
 どうすればこの状況に抗えるか。一番恐怖すべきはノーマライゼーションだよ。日本の市民運動は「ノーマライゼーションの地獄」に鈍感なの。部落でも在日でも琉球でも、差別糾弾の母体となる共同性が、差別解消で消える。部落の人々の同対法時限化を巡る両義的意識、在日の人々の外国人参政権達成を巡る両義的意識、琉球の人々の本土並み化達成を巡る両義的意識が、辛うじて存在するのが救いだけど。
 でもノーテンキな市民運動サヨクは一般にダメだぜ。ノーマライゼーションに抗うには格差が不可欠だというのは重要な智恵だ。そもそも欧州にも米国にも「格差社会が悪い」なんて発想はない。欧州では、底辺の幸せが保障されているならば[階層上昇機会が乏しくても]格差OK。米国では、底辺にも等しく階層上昇の機会が与えるなら[底辺が相当ひどくても]格差OK。
 ノーマライゼーションに抗う智恵だよ。抗おうと思えば論理的に言って格差が不可欠。皆が横並びで幸せになるノーマライゼーションの完成こそ、SF(サイエンスフィクション)的な意味での「社会的な死」だと。日本のサヨクノーマライゼーション一辺倒。プラットフォームに鈍感である限り、日本はダメだな。
**<引用終り<<***