備忘録:再帰的

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学問用語で武装しながら言うと(笑)「再帰性」が重要。
再帰性には、個人に準拠した使い方と社会に準拠した使い方がある。
前者の典型がギデンズ。ニュース解説やカウンセラーから「アナタのやっていることはこういうことです」というメッセージが降り注ぐ中で行動しなければなくなくなった状況を言う。
後者の典型が僕。前提もまた選択されたものであることが自明だという社会的状況を指す。「手付かずの自然」が、手付かずの前提というより、敢えて手を付けないという不作為の結果であるのは、すでに自明だよ。

 両方を組み合わせて言えば「前提が人為的かつ恣意的なものであることを知る者たちが敢えてコミットする」ことが大切。『限界の思考』の物言いを使えば、ノン・オブセッシブ(非強迫的)なアイロニーの推奨。全体を部分に対応づけるアイロニーと、オブセッション(強迫)拒絶とを、併用せよ。「宗教メカニズムとは所詮はこの程度」と社会的にモニタリングするメッセージにさらされつつ、なおも宗教を許容する──場合によっては推奨する──スタンスが重要だよ。「分かってやっている」のであれば舵を切り直せる。喧嘩で言えば「手加減」できる。

 鏡リュウジさんと親しいけど、彼みたいなスタンスだよ。彼はユング研究者になりたかった程で、占星術的世界観の研究者であっても星占い師じゃない。鏡さんと同じくスピリチュアリズム研究で英国留学した江原啓之が、鏡さんに近い立場の人だったけど、途中から舵を切って「本当のヒーラー」になった。それをみた鏡さんが「宮台さん、僕も舵切った方がいいかな」というから(笑)「舵を切ってもいいけど再帰性はどこかに残しておいてね」と答えた。「再帰性の痕跡まで消すと、鏡さんは鏡さんじゃなくなる」と伝えた。彼は、むろんそれを分かっていながら、励ましてほしくて僕に尋ねているんだけどね。

 宗教の機能分析をする立場から言えば、オウムを含めてありとあらゆる宗教は、存在する以上は社会的機能や人格的機能を果たすという他ない。もちろん機能の中には肯定的なものも否定的なものもある。否定的機能なものは代替したり補完すればいい。否定的機能と一緒に肯定的機能も流し去ってしまうと副作用が生じる。でも宗教の肯定的機能を語る室生さんには再帰性がない。だから「あるべき宗教」の信念を語るだけになる。「あるべき宗教」からみてオウムがずれているとか、信者さんはそれほど間違っていなかったとか。

 よく知られた「呪術/信仰」という二項図式も「社会と両立/非両立」という二項図式も、実際には理念型(発見的機能を果たす概念)に過ぎない。「社会と両立する安全な信仰だけから成り立つ宗教」などどいう概念に意味はない。だから僕は「宗教が向かうべき方向性」という言い方をしても「あるべき宗教」という言葉は使わない。それが僕の言説の効力を支えるのだと思う。だから室生さんが言うことにいちいち条件をつける。その命題が成り立つのはこういう条件ですと。それに対して室生さんが怒る。よくある構造だよ。

―:条件や前提を付けられると、人はなんとなく否定されているように感じるようです。今、読み返してみると、必ずしもそうでもないと思うんですが。

宮台:今から振り返るからだね。『サイファ』以降の僕は確信犯的に「あるべき宗教」的な語り方をする。僕が立つポジションが再帰的に一回転している。亜細亜主義の推奨や天皇主義の推奨といった形で「宗教的なもの」の肯定的機能を喋るとき、単なる機能分析をする以上のパフォーマンスをしている。但し徹底した機能分析を通じて梯子外しのアイロニカーを経由した上、敢えて「宗教的なもの」へのコミットメントを語るという形。でも再帰的とはいえ、「室生さんと似た場所に行きましたね」という言い方も間違いじゃない。

―:『対論 オウム真理教考』は、室生さんと亀和田武さんとの対談も、すごく面白いですね。

宮台:絶版になっているのが本当にもったいない。今読み返しても重要な本だよ。

荻上:今改めて、宗教の機能についてどう思われますか?

宮台:19世紀の機能主義的人類学者が「宗教には社会統合機能がある」と言った。典型的にはマリノフスキーの『未開社会の法と習俗』。でも後にマートンが述べたように、潜在機能だから機能を果たす面が大きい。機能が顕在化すれば宗教が相対化されて──他と取替可能になって──機能を失うと。それがマートンの論点だった。宗教とは相対性を否定することで機能するものだからね。相対性を否定することで機能を果たすことがバレると宗教が相対化されてしまって機能しなくなる(笑)。

 室生さんとの対談が面白い理由もそこにある。室生さんは僕が条件を付けることで宗教を相対化していると見る。そのことで宗教の機能が奪われ、宗教を必要としている人々がコケにされると。気持ちはよく分かる。ただ当時はオウム事件という文脈があった。なので、室生さんの仰言ることは重々承知の上、宗教のどの部分が危険なのかをオウムに限らず宗教一般の問題に敷衍して語ろうと思った。

 ただ最近では、東京カトリック教区の司教の集まりや、日蓮宗の僧侶の集まりや、新宗連幹部の集まりなど、大きな場所に招かれて話す機会が多い。必ず出るのが「宮台さんがそれほどまで宗教にこだわるのは、御自身が宗教者だからではありませんか」という質問。実にいい質問だ。「宗教的であること」と「宗教者であること」は確かに違う。宗教的存在が敢えて世俗にまみれて非宗教者として振舞うこともあるし、宗教者然として振舞う存在が実は宗教的存在からほど遠いこともあるからね。

 そういう場合の僕の答えは決まっている。「申し訳ないが、僕が宗教者だと言っても宗教者でないと言っても、僕の言説は効力を奪われる。だから僕は答えません」と。繰り返すけど、その論点はとても重要だよ。宗教を相対化する者が、宗教に敵対する心性を持っているとは限らないし、全くその逆であることがあり得るのだから。それがまさに『サイファ』で僕自身が言いたかったこと。しかしなかなか伝えにくいことだよ。でも「言わなくても実は分かっている」ということがある。僕にそう言ってくる人もたくさんいる。宮台は実は社会学者のふりをした宗教者なのではないか。社会学者は仮の姿じゃないか、と。

**<引用終り<<***



実録・連合赤軍』──私たちは、若松孝二にこの映画を撮らせたい!
投稿者:miyadai
投稿日時:2006-03-02 - 22:25:32
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(2)
宮台真司社会学者)
■中学高校紛争の直中だった中学二年、『ゆけゆけ二度目の処女』『現代性犯罪絶叫篇・理由なき暴行』を観て人生が変わった。社会が良くなれば皆幸せになれる─とは思えなかった。総てがつまらずムシャクシャしていた。暴れたかった。不条理な感情だった。
■そんな感情を掬い上げてくれたのが若松監督の二作品だった。新宿文化地下『アンダーグラウンド蠍座』や池袋『文芸地下劇場』で─なぜか両方とも地下だが─若松作品を貪るように観始めた。その年の冬、連赤事件が起きた。頭の中では全てが繋がっていた。
■思想的な未熟さ云々や首謀者二人の人格云々はそれはそれとして、漏れ伝わる僅かな情報を元に、私は「エゴに見えるものを徹底的に排撃する自己滅却志向」を嗅ぎ取った。そこに漂う匂いは、若松作品の主人公達が示す「子宮回帰願望」が漂わせる匂いと似ていた。
浅間山荘事件を含む連赤事件をモチーフとした商業映画は『光の雨』『突入せよ!』と二本あるが、匂いはかけ離れていた。そこに若松孝二監督の登場だ。何としても実現させたい。「社会なんて糞だ!」という感覚を若い人たちに再び明確に共有してもらうために。