備忘録:「システムの下駄」他

「システムの下駄」
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近代化が進むと、人の能力が解決してきた問題をシステムが解決してくれるようになる。例えば自ら天気を予測せずに天気予報を聴くようになる。むしろ人の能力は敏感すぎない方がいい。定型内に人が収まってくれた方が、システムによる処理可能性が高まるからだ。
■かくして昔なら許容されていた感覚の拡張がむしろ抑圧されるようになる。近代がドラッグを禁止するのもそのためだ。かくして人はシステムにとって都合のいい存在に縮小する。人がそれを受け入れたのはシステムが与える豊かさが魅力的だったからだ。今ではどうか。
■いったん豊かになれば今度は、近代化によって抑圧された感覚を取り戻したいと思う者が出てくる。システムへの適応によって失われたオルタナティブな感覚や思考を取り戻したい。サーフィンやニューエイジサイエンスや武士道がブームになる背景が、そこにある。
■だが豊かな近代社会だからこそサーフィンを楽しめる。ブームが象徴するのは「システムの外もまたシステム」のアイロニー。馬鹿なニューエイジ主義者の如き素朴な反近代は願い下げだ。しかし、この認識を徹底すればするほど、先に述べた「疑問」が先鋭化する。
■今日の社会システムはシステムの下駄を履かずに生きる余地を──古典的な生活世界の存在を──完全に消去した。だからこそ『誰も知らない』の子供たちは「子供の領分」成立の一年後、次女の死という悲劇的結末を迎える。我々はそういう〈社会〉を生きている。
■そういう〈社会〉を生きることに、どんな意味があるか。即ち「入替え不能な我々のために、入替え可能なシステムがある」というより「入替え不能なシステムのために、入替え可能な我々がある」と感じられる〈社会〉を生きなければならない理由が、あり得るか。
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「正しさの空転」
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複雑な社会で、寄る辺なき者が最後に縋り付く地面が「正義」となる場合、「正義の強迫的追求」と「生きにくさ」とが嗜癖的な悪循環を構成しがちなのだ。
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成熟社会における「切実さ」とはなにか。「正義の脅迫的追求」ではないのか?
実は切望する社会像(=夢)がないので、「今ここ」もないのではないか?
「道徳」や「正義」をフックに「言質」をとって自分の正義へ動員する。
そこに根本的なねじれが生じる。生じたまま死ぬ。
「複雑な社会」という共通前提を得にくい。

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小田中先生とか山形先生とか挙句の果ては松尾匡先生までが「むずかしい」「よくわからん」とおっしゃる拙著でございますが、皆様ゆめゆめだまされてはなりません。
 この手の賢明な大先生方がおっしゃる「わからない」「むずかしい」は往々にして「趣味に合わん」「好きじゃない」の婉曲な言い替えにすぎないのであります。
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国際資格
PMP(Project Management Professional)」のバイブルとも呼ばれるPMBOKガイドは、
プロジェクト管理に関する知識を「スコープ管理」「スケジュール管理」「コスト管理」「品質管理」「組織・要員管理」「リスク管理」「調達管理」「コミュニケーション管理」とそれらを統合した「統合管理」という9つのエリアに分類している。