メモ:オジ様たちの共同体・そしてお祭り2
***>>引用開始>**
われわれは、この「にとっては」を理解することによって、反省的・再帰的性質を理解するのだが、それを理解した段階でもなお、現実の現実そのものの現実性を把握するに際しては、この反省的・再帰的性質を適用する必要がない。正確に言えば、概念的に把握するためにはその必要があるのだが、もしそれしかなかったら、重要な(恐らくはこの世で最も重要な!)要素が抜け落ちてしまうことになる(6)。「現実の現実」という言語表現は、高階の反省を表現しているが、それはただ反省のまったき欠如に到達するための苦肉の策でしかない。だからこそ、その現実性はまったく特別の現実性として君臨し続けている、のではあるのだが、にもかかわらず、それを言語的に表現しようとすれば、もはや高階の反省表現によってしか表現することができないのだ(7)。
(中略)
ただし、私は(ハイデガーと違って)この存在忘却を告発したいわけではない。むしろその必然性(つまりわれわれが「言語の見せる夢」を見ざるをえないことの必然性)を理解したいのである。われわれの生きているこの夢の世界では、この夢を見ない人の方こそが「狂気」とされるのだから。
**<引用終り<<***