「自己啓発セミナー」・「宗教」

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=268
>>>>>
時代は既に近代成熟期=後期近代。モノの豊かさが達成され、欠乏ゆえの上昇欲求はあり得ない。だから動機づけの枯渇が問題になり、自己推進力の調達が求められていたのだ。
・・・・・
■動機づけの枯渇(にも拘らずの動機づけ要求)に対処すべく、修養的な自己啓発躁状態になる。だが二十年前と決定的に違うのは、修養の自明性が崩壊していること。修養された内面の如きものがデータベース&アルゴリズムの生成物であることこそが今や自明だ。
■だから修養的な自己啓発は長続きしない。データベース&アルゴリズムを観じる黙示録的覚醒(メタ視点)に直ちにスリップする。だがやはり二十年前と決定的に違う。〈世界〉の運命と違って、データベース&アルゴリズムは超越ならざる内在。それ自体が偶発的だ。
<<<<<

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=282
>>>>>
皆さんはラストシーンを観たばかりだと思うのですが、ラストシーンのせつなさ、切実さを思うにつけて、こういう映画って他にあっただろうかと思います。
 廣末さんの「さよなら さようなら」にも言えるのですが、共通して、傑出していて稀有なのは、世界観が非常に明確だということです。それはこの映画が短い撮影期間で終了したことにも関連すると思います。
 この世界がどういう世界なのか。少なくとも主人公や作り手にとってどんな世界なのかを、ここまで明確に描く自主製作映画はあまり見たことがない。普通は、僕たちの通俗的な世界観をそのまま前提にして作ることが多いのです。
 世界観が骨太でしっかりしているので、シナリオ段階できっちり描き込まれた映画なのだろうと感じました。痴話喧嘩をアドリブで撮るようなタイプの自主製作映画が流行っていますが、そういうヘタレな映画とは違った、世界観ベースの映画のだと思いました。

・・・・・

高橋
僕は自分のことを日常障害者と呼んでいるんですが、基本的に日常をうまく生きていけないんです。なので、こういう風に映画をちょっとでも作れる才能があったことは非常にありがたく思います。本当に普通に生きるのが厳しくて、そんなことは軽く考えておけばいいということまで真剣に考えてしまったりとか。たぶん廣末もそうで、とても小さなつまずきに関しても二人で必死になって話し合ってしまうのです。

●「ある朝スウプは」
宮台
主人公の男がどんどん向こう側に行ってしまうプロセス、関係性が崩壊していくプロセスを、こんなにリアルに描けるのは、なぜなのでしょう。少なくともこのような作品を自主製作映画で観たことはありません。
 似た映画をさかのぼると、35年前の劇場映画に見つかります。マイケル・サラザン主演でジャクリーン・ビセット助演の『さらば青春の日』。『ある朝スウプは』の主人公が宗教へと崩れていくのに対し、『さらば青春の日』では薬へと崩れていきます。
 崩れていく理由は、やはり生きにくいからです。主人公は天才的な小児科医ですが、患者の子供たちが死んでいく。その事実を周囲はみな事務的に処理していく。そんな当たり前のことが主人公にはできない。無理に合わせようとして、薬に溺れるのです。
 それをジャクリーン・ビセットが何とか引きとめようとするのですが、結局は叶わないという、切ない映画です。皆さんいかがでしょう。浮気とかじゃなく、当事者がピュアだからこそ関係が崩壊していくというプロセスが、リアルに描かれた作品は、あまりない。


<<<<<