某サヨ板議論に呆れて

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本当を言うと、私も「不可能性の志向」によって絶えず勇気づけられる人間です。ただロマン主義はいつでも、オリジネーター(創案者)は「精神的勝利法」に過ぎない、文字通り「不可能性の志向」に過ぎないことを自覚しているのに、サクセサー(継承者)はネタをベタと読み違えて、「オレたちには凄いものがある」と思い込む。そういう馬鹿が量産されてしまうわけですよ。
 でも翻ってみれば人間はそういうもの。そういうものだということを知らないからアタフタする。「ネタをベタと読み間違える」自称右翼もオボコいが、何かというと「コノ右翼め!」とか目くじら立てる自称左翼もオボコい。どちらもオボコくて免疫がない。我々はちょっと賢くなるだけでいいのではないかな。「人間はそういうものだ」っていう免疫をつけるだけでいい。
 ロマン主義は「不可能性の志向」。可能だからではなく不可能だからこそ志向する。なのにロマンチシズムを本当に実現可能な夢だと思え違えたり、本当に獲得しうる理想だという風に思い違えたりする。それが繰り返し起こる。亜細亜主義の第二義=護持の義にも関わるが、「可能じゃないと元気が出ない」というのは唐変木。「正しいことが保証されないと勇気が出ない」というのは馬鹿。日本浪漫派じゃないが、ロマンチシズムを護持するために必要な最低限の素養だ。だったら次世代に伝授しましょう。