【俗情としての占いと心理学の共通性】

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=376

***>>引用開始>**

■そうなると「不透明さに抗して選択肢を提示してほしい」との思いと「選択肢が多すぎるから選ぶ時に背中を押してほしい」との思いが高まる。かかる認知的な方向づけ機能と指令的な動機づけ機能への要求が高まるからこそ、一方で占いや呪いがブームになるのだろう。
■心理学ブームの背景も同じだろう。どうなってるのか「誰か」教えて。どれがいいのか「誰か」教えて。その「誰か」が、占いであり、心理学だということだ。まさに俗情たる所以だ。ところが臨床心理学や精神医学が取り扱う「心」の概念はそんなに自明ではない。
■何万年と続いた原初的共同体では、事物や出来事や枠組を誰もが同様に体験し、同様にに体験するがゆえに同様に行為する。たまに予想外の行為をする者が現れると、狐が憑いた、神が降りた、と了解され、共同的な宗教儀式で、日常世界から切り離された(聖化)。
■この段階では各人に「心」があるという観念はあり得ない。ところが社会が複雑になり、コミュニケーションの相手が予想外の振舞いをする期待外れの頻度が高まると、各人に異なる「心」があり、他人に見通せないという解釈が始まる。かくして「心」が生まれる。
■今日の「底なしの再帰性」(選択の前提も選択されたものだという性質)の下では、コミュニケーションは一層不透明になり、他人ばかりか自分の行為まで理解し難くなる。かくして「自分の心」に関心が集中、「心のせいだ」と帰属処理がなされる。今日的状況だ。


【全体性に接近するための協働】
■今でも愚かなマスコミ(と精神科医)は「動機探索」と「病名探索」に勤しむ。無意味だ。「動機探索」に意味があるのは行為の「敷居が高い」場合だけ。でも「脱社会的存在」は殺人行為の「敷居が低い」。敷居が低ければ些細な契機で殺すから、動機は雑多になる。
■処方箋が欲しければ「動機探索」でなく「敷居が低く」なった理由を問うべきだ。ところが「動機探索」に失敗すると今度は「病名探索」に勤しみ、「人格障害です」などと大切な問題を覆い隠す。感情の動きが不可解な対象をそう呼ぶだけの単なるトートロジーだ。
■本来なら、「治せない不可解な対象」が大量発生した30年前の時点で、心理学者は、「問題の防遏には社会環境の改変しかない」として、問題を社会学者に投げるべきだった。社会学者は、「人殺しの敷居が低くなる社会的メカニズム」の探求に乗り出すべきだった。

**<引用終り<<***