備忘録:「ネット議論」

心理的な動機からストーカーしている人にまともな議論は不可能。
議論自体が回復へのリハビリテーションになりうる可能性は認めるが。

参加させといてスルー(シカト)はいけない?

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 第二の焦点は、今の話と一見矛盾しますが、これこそが普遍的だと言えるものは永久にあり得ないという立場をとることです。せいぜいアレよりもコレの方が普遍的だという具合にその都度の相対的な主張が可能だ--正確に言えば多くの人々を説得できることがある--というに過ぎない。
 一口でいえば「普遍主義の不可能性と不可避性」ということになります。もっと詳しく言えば「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」となります。不可避性と不可能性のギャップをどう実践的=理論的に「橋渡し」するかが現代政治哲学の最前線の課題だと断言できるのです。
 そうした流れの駄目押しが、二〇〇八年九月以降の米国発の金融危機です。いずれサブプライム(=三流以下)向けローンが支える住宅バブルが炸けて金融危機が起こることは、素人を含めて誰もが確信していたので、金融危機が起こったこと自体については誰も驚いていないでしょう。
 金融危機が起こる前から、日本にも米国にも、どんなメカニズムが金融バブルを支え、どのようにそれが炸けるのかについて考察していた学者たちがいました(ラグラム・ラジャンなど)。にもかかわらず、なぜ今のような状況になってしまったのか? キーフレーズは「社会の底が抜けた」です。
 正確にいえば、どんな社会も「底が抜けて」います。つまり、社会がその形をとるべき必然性はありません。つまりは恣意的です。恣意性は消去できません。でも、恣意性を乗り越える、あるいはやり過ごす働きを、従来は多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったのです。

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