メモ:「ダルさ」

映画「オーシャンズ」の解説の中で宮台が繰り返す「ダルさ」
この前読み直して、なんとなく意味がわかった。
好き好んで過酷な(社会)環境と闘う奴はいない。しかし状況が闘いを強いる。その「しかたなさ」がダルいのだ。

***>>引用開始>**
■新人類世代(1960年前後生まれ)の時事放談という宮崎哲弥氏の企画で始まった連載「M2」も、掲載誌『サイゾー』の創刊から五年を数え、連載をまとめた本も三冊目となった。こんなに長く続いたせいで、私たちが社会派であるかの如き誤解が蔓延ってしまった。
■二冊目の後書きに記した通り、私は社会問題に関心が薄い。いろんな所に書いたからザックリ言うと、私は眩暈体験(をもたらす何か)にしか関心がない。ところで、長く一緒にやってくれば分かるが、宮崎氏も社会問題に関心が薄い。彼は実存問題にしか関心がない。
■二人で話すのだが、論壇誌が極端にツマラナイのは、社会問題に関心が高い連中、社会について発言したくて堪らない連中が書くからではないか。それほど発言したがるのは、一つには、社会について発言することが、何事かであり得ると素朴に信じるからであろう。
■だが十年以上前に書いたが、「〜が必要だ」などと論壇誌に「べき論」を書くことに意味があると思う輩は、頭が変だ。女子高生はもっと自分を大切にすべきだ、云々。国民は納税者意識をもって政府を監視すべきだ、云々。いったい、誰に向かって言ってるんだ。
■女子高生が読んでいるのか? 国民が読んでいるのか? 馬鹿馬鹿しい。結局、せいぜい団体職員60歳(笑)が読む「オナニー雑誌」に過ぎない。真剣に社会をどうこうしたいと思っているなら、「オナニー雑誌」に書いている暇はない。ロビイングあるのみだろう。
■もう一つには、「論壇というものに憧れる輩」がとりわけ若い世代に増えて来ていることもあろう。何も論壇に限られない。私が属するアカデミズムもそうだし、私が関わる映画の世界もそうだ。「学者というものに憧れる輩」「映画というものに憧れる輩」だらけ。
■昔ゴダールが言った。自分は「政治映画を撮る」のでなく「映画を政治的に撮る」のだと。政治映画は、映画を疑わずに政治を語る。そうでなく、政治を疑うのと同じ意味で映画を疑えと。なぜなら、映画を疑えない輩──日常を疑えない輩──に政治は疑えないからだ。
■論壇も同じだ。論壇誌の駄文は、論壇を疑わずに政治を語る。そうでなく、政治を疑うのと同じ意味で論壇を疑う必要がある。現に、政治よりも重要なことが世の中には満ちている。政治を語ることに時間を費やすことで何が犠牲になったかに敏感である必要がある。
■単に「論壇というものに憧れる輩」には、論壇を疑うことができない。単に「学者というものに憧れる輩」や「映画というものに憧れる輩」には、アカデミズムや映画を疑うことができないのと同じだ。この手の論壇小僧が、社会について発言したくて仕方ないのだ。
**<引用終り<<***