キーワード:左翼

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自虐史観と左翼と鬱
左翼の自虐史観キリスト教道徳と何が親和性があるのか。
偽善者の言う「反省」という言葉に込められた意味での自虐。
永遠に己を許さない。どんな罪なのか?
→それを他者に強いて共有する(ニヒリズムを信じる)ことによって親和性を高め安心する。→感情ゲーム
ルサンチマン
「やましさ」を感じることがなぜサルに必要だったのか?
集団主義には大切?
→つまらない一般化か?(笑)

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080907
・私にせよsvnseeds氏にせよある種の「いらぬお世話」ないし先読みによる邪推をしていたかもしれない。なぜsvnseeds氏は「仕方ない、みんなで立ち上がろうっ!」を「本当に恐ろしいと感じる」のか? たしかに誰もここで暴力革命・武装蜂起の話はしていない。民主主義的な政治プロセスの中で「立ち上がろう」というお話であると読むのが自然である。そういう立憲民主主義の枠内であれば、そう無茶はできないはずだ。

 では何が「恐ろしい」のか? svnseeds氏にも、そしてぼくにも、少なくとも現今の日本の政治情勢下では、その立憲民主主義の枠内で「立ちあが」ったところで、さほどの成果が期待できない、と思えるからだ。

 ぼくの考えでは端的に言って、先進諸国における貧困者その他の社会的弱者はマイノリティであり、政党を結成して議会における多数派を形成し、政権を奪取する、などということが想定しづらい。仲間を結集して連帯することにも意味はあるが、それは「立ち上がる」前の前のくらいの段階だ。(そこで終わるならば何だっけ、前におおや先生が言っていた通り「宗教」である。もちろん宗教にもそれなりの価値はあるには違いないが。)となると地道などぶ板活動を通じて、必ずしも仲間とは言えない人々の間にも広く支持を集め(シンパを作り)、多数派形成をするとか、あるいは既存の大勢力の支持をうまく取り付けるとか、とにかく「立ち上がる」までの準備段階がおおごとであるし、また「立ち上がり方」もそう単純なものではあり得ない、ということである。

 もしもそういう地道な準備段階をすっとばして「立ち上がろう」というのであれば、それは実際には立憲民主主義の枠を外れた何らかの実力行使――たぶんそれを「市民的抵抗」と呼ぶことはできなくはなかろうが――になるのではないか。このような予想が、おそらくsvnseeds氏には何となく念頭に浮かんでのではなかろうか。まあぼくの場合はぶっちゃけそうである。

(正確に言えば、まさか実際に実力行使を呼号するわけでもなかろうが、そうでないとするとどういう理屈になるのかわからん、てところか。でも実力行使って言っても幅が広いといえば広い。「川崎バス闘争」(ググれ)程度でも見ようによっては実力行使かもしれん。おおや先生の「プリンスホテルも市民的不服従」にはわらったが。)

(「川崎バス闘争」といえば、以前知人が福祉系大学に勤めていた時に授業で川崎バス闘争のビデオを見せたら、学生から「アルカイダみたい」という感想があって地の底に吸い込まれそうなほど脱力したそうだが、ここは学生を笑うところか、それとも「世の中とはそもそもそういうものでそういう人々を味方につけてなんぼ」なのか?)

 まあしかしこれは冷静に考えれば多分に「いらぬお世話」であり邪推だよね。だいたいそういう無力な左翼の暴発があったところで、大した被害は出ないはずだし、それにちゃんとした左翼の人は、「立ち上がる」前に必要なそういう足場固めに日々努力しているはずで、ダメな左翼の例ばかりを念頭において非難したのではフェアではないから……。