「立川談志」10時間特集

そういえば「粗忽長屋」を「不条理長屋」といっていたのはいつだったかな。

見ていて「もういい」という気になってしまった。
声が出ない。自分が想像力で補っている。
見ながら「哀れ」と思い、言葉を飛ばさぬようにハラハラしている。

皆はどうでも、私は5月の浜松で最後かもしれない。

例えば「居残り左平次」とか「らくだ」にあるような
「むちゃくちゃ」がどうしたって成り立たない、
全くありそうもない世の中になってしまった。
仕掛ける人間も受けて経つ人間もいない。
そのルサンチマンを抱き続ける正義も合理性もない。
そこに現実との地続き感がない。
「今」を生きてる人の肉体に沁みこんだ「仕方なさ」につながらない。
その手ごたえのなさをずーっと家元は感じて嘆いていたのではないだろうか。
人としては変わっていないのに落語の中には塗り込められない。

それは志の輔「メルシーひな祭り」にも感じた不自然さだ。

時代の終わりを見ているのか。