メモ

「恨み半分感謝半分」
「誘う」「お願いする」

11.12の続き
***>>引用開始>**
■だがこの映画には救いがある。即ち「ベトナム戦争さえなければ男のオブセッションもなかった筈だ」との反実仮想があるからだ。翻って『リチャード・ニクソン暗殺〜』にはこうした救いはない。主人公のオブセッションを社会的な特殊事情には帰属できないのだ。
■その分『リチャード・ニクソン暗殺〜』には複雑な社会ならどこでも通用する寓話性がある。「まともに生きようとするからうまく生きられない」のか。「うまく生きられないからまともに生きようとする」のか。複雑な社会では両者が悪循環的に噛み合うのである。
■G・ベイトソンなら「スキゾジェネシス(分裂生成)」と呼ぶ相互昂揚の悪循環を、今日「嗜癖」と呼ぶ。複雑な社会で、寄る辺なき者が最後に縋り付く地面が「正義」となる場合、「正義の強迫的追求」と「生きにくさ」とが嗜癖的な悪循環を構成しがちなのだ。
■『リチャード・ニクソン暗殺〜』のラストで血祭りになる主人公を目撃した私たちは、自らに問うだろう。「まともさ」に関わる自明性を空洞化させる「終わりなき再帰性」を抱えがちな複雑な社会は、果たして良き社会なのだろうか、と。そこに映画の寓意がある。
■「終わりなき再帰性」を伴う複雑な社会での「正しさの空転(社会性から実存性への頽落)」という主題には、数々のバリエーションがあり得る。次回『空中庭園』『ベルリン、僕らの革命』『マイ・ファーザー』『グッバイ、レーニン!』にバリエーションを探る。
**<引用終り<<***