「自意識のぷよぷよ」「ただの大人ではない大人になること」

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■かつて大正モダニズムの時代。将来を嘱望される帝大生も“一皮めくれば”、故郷に住む「八墓村的因襲を生きる父母」がいた。戦後高度成長の晩期。革命を論じる意気軒昂な大学生も“一皮めくれは”、郊外に住む中産階級の両親を巡る「自意識のぷよぷよ」があった。
■あれから四十年。問題は解決したか。「自意識と社会の境界問題」「自意識のぷよぷよ問題」は消えたか。消えたとすればそれを悩むのに必要な社会性さえ消えたではからではないか

チャップリンは《人生模様をクローズアップでみれば悲劇、ロングショットで展望すれば喜劇》と述べたが、多くは基本的にその系列に連なる。没入化と距離化の落差経験を「梯子外し」の道具として使う。

■優が種違いの妹であること。優と母親を共有すること。それは言葉で定義された「事前決定的=規約的」な関係性に過ぎない。そうした関係性が人の感情を拘束するのを私たちは知っている。それで嫉妬で狂ったりすることも知っている。
■だが私たちは、自分の感受性が時にそれを越えるのを知っている。アレゴリカルな一瞬の閃きに感応し、言葉の上では理不尽な振舞いが出来たり出来なかったりするのを知っている。多くの映画がそれを捉え損ねる中、『水の花』だけが一瞬の閃きを捉えている。