瞑想を巡って 1

2010年頃、娘と一緒に習っていた空手が面白くなった。図書館で空手や合気道古武術の本を読み漁った。ヘルパー2級講座も受けたので、三好春樹の介護の本も読み漁った。すると、介護で人の体を動かすにも体の仕組みを知らなければならず、日本古来の古武術はとても理にかなっていることがわかった。


そんな図書館徘徊でたまたま目に止まったのが、

希望のしくみ

希望のしくみ

初期仏教ってそういうことだったのか…と、己の無知を思い知る。似非科学かぶれの私は、養老孟司との対談でなければ、多分読まなかった。それから今度はスマナサーラの著書を読み漁り、テーラワーダ仏教協会のホームページも読み漁った。


乱暴に単純化して解説すると、スマナサーラが推奨する瞑想法には、ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想がある。ヴィパッサナー瞑想は、一瞬一瞬の自分自身に気づく訓練。慈悲の瞑想とは、「私が幸せでありますように…」から始まる言葉を心の中で唱え、そのことに集中する訓練。リラックスすることを目的とした瞑想や、より集中力を高めるサマタ瞑想とは全く違う。スマナサーラは、神秘体験に繋がるサマタ瞑想のようなことを嫌う。仏教の目的はそうしたことではないからだ。


では、何のためにそんなことをするのか?
頭が妄想に支配されないため。常に醒めているため。
仏教でいう「放逸」とは自分の自覚のない想念に支配されてしまうこと。


瞑想は老人ホームに就職したときに大いに役立った。
妄想に支配されそうなときは、瞑想をして、目の前のことに集中する。仕事以外の時でも、仕事での失敗など、うじうじ考えてしまう時は、すかさず瞑想。おかげで、物事の優先順位に自覚的でいられたし、余計な噂話が気にならなかった。
けれど、介護現場を離れて総務課で事務仕事をするようになってから、時がたち内情がわかるにつれて「怒り」に支配されてしまったと反省している。
話はそれるが、学生の頃から大小いろいろ見てきた事務経理部門の中では、表面的にはまともそうに取り繕われているだけに、ここの総務課の実相の貧しさはいくらかショックだった。まともな番頭さんがいない。内部留保が潤沢で財務状態がヤバイわけではないので問題化しない。古くからある社会福祉法人の多くが多分あんなもんだろう。加えて、社会福祉法人や医療費をめぐる役人の利権、天下りのしくみもリアルにわかってしまった。
病気のパートのおばさんに何ができるわけでもないのに、今思えば、病気が進行する前にどうにかしたいという欲or功名心にとらわれていたのだろう。うまく瞑想ができず、醒めていられなかった。



ということで、本来瞑想とは、こんな大きな社会問題さえ「小さなこと」と思わせてくれる、反社会的なものなのだw